1400年の歴史

聖徳太子創建から発展、乱世、現代へと続く、波乱と謎に満ちた百済寺の歴史をご紹介します。

年表

574(敏達3)年 聖徳太子(厩戸皇子)うまやどのおうじ誕生する。
590(推古法興元)年 百済国寺はくさいこくじが創建される。(寺伝異説:聖徳太子元服記念)
593(推古元)年 聖徳太子、推古天皇の摂政になる。
595(推古3)年 高句麗の高僧、慧慈えじが来日する。
602(推古10)年 百済の高僧、観勒かんろくが来日する。
606(推古14)年 聖徳太子の勅願により百済寺が創建される。
609(推古17)年 百済の高僧、道欣どうきんが来日する。
622(推古30)年 聖徳太子が生涯を閉じる。
1050(永承5)年 大般若経600巻の書写がはじまる。
1089(寛治3)年 大般若経600巻の書写が完成する。
1145(久安元)年 「百済寺号天台別院」と称される。(東寺略年代記に記載)
1174(文永11)年 大火に合う。
時期不明 藤原定家「明月記」に記す。
1183(寿永2)年 木曽義仲に米五百石を贈る。
1213(建暦3)年 比叡山延暦寺の塔頭たっちゅう、無動寺の末寺になる。(華頂要略かちょうようりゃくに記載)
1274(文永11)年 大火にあう。
1340(暦応3)年 大般若経600巻が伊勢国伊賀平野庄の池辺神社に移る。
1364(貞治3)年 大般若経600巻が野田六所社(所在不明)に移る。
1391(明徳2)年 版元妙法蓮華経(百済寺版)を出版する。
時期不明 飛鳥井雅親あすかいまさちか、宿坊に一泊する。
1478(文明10)年 横川景三の返書に「百済寺酒」が記載される。
1486(文明18)年 蔭涼軒日録いんりょうけんにちろくに「百済寺樽ひゃくさいじたる」が記載される。
1492(明応元)年 兵火にあう。
1498(明応7)年 大火にあう。
1503(文亀3)年 兵火にあう。
大般若経600巻が安曇川北船木の若宮神社に移る。
1504(永正元)年 伊庭貞隆いばさだたかより安堵状が送られる。
1518(永正15)年 佐々木六角ろっかく氏家臣、進藤賢盛が1523(大永3)年にかけて城塞化をすすめる。
1523(大永3)年 金剛力士像を造影する。
佐々木定頼が法華経読誦させる。
1536(天文5)年 鹿苑日録ろくおんにちろくに「百済寺樽」が記載される。
天文法華の乱で学僧6人が討ち死にする。
1568(永禄11)年 織田信長より禁制が送られ、信長の祈願所となる。
1573(元亀4)年 織田信長の焼き討ちにより全山焼失する。
御本尊を奥の院不動堂に避難させ焼失を免れる。
1575(天正3)年 御本尊と衆徒しゅと4人が帰山し、仮の草堂を建て、御本尊を安置する。
1576(天正4)年 衆徒3人が帰山する。
1577(天正5)年 衆徒2人が帰山する。
1584(天正12)年 豊臣家臣の堀秀政の寄進により仮本堂が建立される。
1585(天正13)年 豊臣家臣の田中吉政が御本尊仏具灯明料を寄進する。
1589(天正17)年 本堂に黒馬・白馬の絵馬が奉納される。
1602(慶長7)年 近江国検地が行われ、徳川家臣の米津親勝よねきつちかかつより沙汰状が下り寺領146石余・諸役免許が安堵される。
1612(慶長17)年 徳川家康の朱印状により、寺領・諸役免許が安堵される。
井伊家の五百万石加増で百済寺も井伊家の領内となる。
1617(元和3)年 2代将軍、徳川秀忠より寺領100石安堵の朱印状が下る。
1634(寛永11)年 徳川家光上洛彦根宿陣に際し、百済寺の僧8人が茶の湯接待を任される。
天海大僧正だいそうじょうにより法度書が申し渡される。
井伊直孝より、茶の湯の礼として従来の夫役免除、今後将軍上洛時の茶道役命令が下される。 天海大僧正の高弟、亮算りょうざんが入山する。
1636(寛永13)年 3代将軍、徳川家光より寺領安堵の朱印状が下る。
1637(寛永14)年 明正天皇より伽藍がらん再興の綸旨りんじを賜る。
老中、土井利勝より寄進を受ける。
老中、酒井忠勝より寄進を受ける。
家康側室、英勝院局より寄進を受ける。
大奥総取締、春日局より寄進を受ける。
東叡山寛永寺ならびに天海大僧正より寄進を受ける。
彦根藩主、井伊直孝より寄進を受ける。
幕府大棟梁、甲良豊後守宗広こうらぶんごのかみむねひろより寄進を受ける。
1648(慶安元)年 南院坊亮応が死去する。
1649(慶安2)年 彦根藩、井伊直孝より復興のために労力と木材の援助を受ける。
1650(慶安3)年 本堂、仁王門、山門(赤門)を再建し、落慶らっけい法要を営む。
1651(慶安4)年 梵鐘・本尊前の鰐口を勧進し鋳造する。
1658(万治元)年 彦根藩2代藩主、井伊直孝の嫡男、直滋が突如出家し、百済寺で隠遁する。
1659(万治2)年 井伊直滋、百済寺に幽閉される。(寛永寺→延暦寺)
1661(寛文元)年 井伊直滋が百済寺で生涯を閉じる。
1662(寛文2)年 亮算、一山の年中行事を定める。
1665(寛文5)年 4代将軍、徳川家綱より寺領安堵の朱印状が下る。
1685(貞享2)年 5代将軍、徳川綱吉より寺領安堵の朱印状が下る。
1718(享保3)年 8代将軍、徳川吉宗より寺領安堵の朱印状が下る。
1732(享保17)年 直滋の御廊建立の許可。
1733(享保18)年 井伊直滋墓所(峻徳院殿墓所しゅんとくいんでんぼしょ)が建立される。
1736(天文元)年 喜見院が火災で焼失する。
1737(天文2)年 喜見院を再建するため、井伊家から人夫3000人が寄進される。
1738(天文3)年 井伊直定が供養料として金100両・山林29町余を寄進する。
1747(延享4)年 9代将軍、徳川家重より寺領安堵の朱印状が下る。
1762(宝暦12)年 10代将軍、徳川家治より寺領安堵の朱印状が下る。
1788(天明8)年 11代将軍、徳川家斉より寺領安堵の朱印状が下る。
1839(天保10)年 12代将軍、徳川家慶より寺領安堵の朱印状が下る。
1852(嘉永5)年 彦根藩主、井伊直弼が百済寺郷を巡見する。
1855(安政2)年 13代将軍、徳川家定より寺領安堵の朱印状が下る。
1860(万延元)年 14代将軍、徳川家茂より寺領安堵の朱印状が下る。
1868(明治元)年 神仏分離令により、日吉十禅社・八幡社・白髭社・大行事社が分離される。
1870(明治3)年 彦根藩知事、井伊直憲が巡見の際に百済寺の弁当を食す。
1900(明治33)年 「絹本著色日吉山王神像」が国重要文化財絵画に指定される。(県立琵琶湖文化館寄託)
「紺紙金泥妙法蓮華経入黒漆蒔絵函」が国重要文化財工芸品に指定される。(県立琵琶湖文化館承認)
1940(昭和15)年 本坊喜見院を仁王門前から現在地に移築する。
光哲住職が本坊庭園「天下遠望の名園」を造営する。昭和40年完成。
1944(昭和19)年 大阪市立精華国民学校より学童集団疎開51名を受け入れる。
1951(昭和26)年 光哲住職による御本尊「十一面観世音菩薩」(植木観音)の御開帳が行われる。
1953(昭和28)年 「金銅唐草文磬」が国重要文化財工芸品に指定される。(県立琵琶湖文化館寄託)。
1969(昭和44)年 「三十六歌仙屏風」「絹本著色黄不動図」「木製絵馬」が市指定絵画に指定される。
「木造十一面観音立像」「木造聖観音坐像」「木造如意輪観音半跏像」「金銅弥勒半跏像」が市指定彫刻に指定される。
「孔雀文銅磬」が市指定工芸品に指定される。
1976(昭和51)年 「ばち 銅鑼」が国重要文化財工芸品に指定される。
1982(昭和57)年 「版本妙法蓮華経(百済寺版)」が県指定有形文化財書跡に指定される。(滋賀県甲賀市・櫟野寺所有・琵琶湖文化館寄託)
1983(昭和58)年 「大般若経」が県指定有形文化財書跡に指定される。(滋賀県高島市・若宮神社所有・琵琶湖文化館寄託)
1987(昭和62)年 本堂正面の石垣の部分修復を行う。
銅造如来倚像(薬師堂安置)国重要文化財彫刻に指定される。(山形県真室川市・山神社所有)
1988(昭和63)年 「紺紙金字妙法蓮華経 開結経共」が県指定有形文化財書跡に指定される。(県立琵琶湖文化館寄託)
1989(平成元)年 百済寺遺跡調査により中世酒蔵遺構を発見する。
1991(平成3)年 「石曳絵馬」「絹本著色如意輪観音図」が市指定絵画に指定される。
1998(平成10)年 「百済寺本坊喜見院書院」が国登録有形文化財に登録される。
「木造不動明王二童子像」が市指定彫刻に指定される。
2000(平成12)年 「法隆寺夏期大学」閉校式が百済寺で行われる。
「弥勒菩薩半跏思惟石像」を亮明住職が建立する。
2002(平成14)年 「百済寺本堂」「百済寺総門」「三所権現社」「鐘楼」が市指定建築物に指定される。
2003(平成15)年 境内「植木活動」開始し、鹿獣害対策候補樹としてミツマタ(三椏)を選定する。
2004(平成16)年 「百済寺本堂」が国重要文化財建造物に指定される。
仁王門から表門にかけて「石垣参道」を整備する。
2005(平成17)年 「熊野三所権現御正躰」「百済寺懸佛七面 附一面」が市指定工芸品に指定される。
弥勒石像周辺の「なだら坂」を整備する。
2006(平成18)年 百済寺創建1400年、天台宗開宗1200年記念して、御本尊「木造十一面観音立像」を開帳する。(湖東三山同時開帳 亮明住職)
2008(平成20)年 「百済寺境内」81ヘクタールが国史跡に指定される。
「木造毘沙門天立像 附 永正九年造立願文 一紙」が市指定彫刻に指定される。
「百済寺懸佛七面 附一面」が追加指定される。
2009(平成21)年 「百済寺境内」が市指定名勝に指定される。
「百済寺境内出土遺物(瀬戸灰釉瓶子、常滑三耳壺、白磁四耳壺、土師質筒型容器、常滑二筋壺、信楽桧垣文壺)」が市指定考古資料に指定される。
2012(平成24)年 旋風により「弁財天社社殿」が大破する。
「弁財天社社殿」を修復する。
本坊庫裏別棟の瓦屋根を葺き替える。
2013(平成25)年 不動堂を修理する。
台風により被災した「百済寺境内」を復旧する。
表門から極楽橋にかけて「石垣参道」を整備する。
2014(平成26)年 御本尊「木造十一面観音立像」の御開帳が行われる。(湖東三山同時開帳 亮明住職)
境内「植木活動」として1000本のミツマタ植栽を達成する。
2015(平成27)年 本坊庫裏本棟の瓦屋根を葺き替える
「天下遠望の名園」内苑と外苑の整備を開始する。
2016(平成28)年 三所権現社を修復する。
2017(平成29)年 本坊上蔵屋根瓦を葺き替える。
444年ぶりに銘酒「百済寺樽」の復活プロジェクトが始まる。
総門(赤門)の解体修復中。(平成30年完成予定)
2018(平成30)年 1月「百済寺樽」が完成する。
4月 総門(赤門)の完成。江戸後期・幕末明治初期・昭和三十年代の修理に続き、4回目。「平成の改修」は初めて。

参考書籍・協力

年表、ページ作成にあたり下記の書籍や資料から多く引用、転載させていただき、深く感謝申し上げます。



  • 東京大学史料編纂所『大日本史料(第十編之十五)』(1975年3月)
  • バードレ・ルイス・フロイス『日本耶蘇会年報』(1573年5月27日)
  • バードレ・ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史2(信長とフロイス)』中公文庫(2000年) 
  • 『信長公記(天正元年4月7日の章)』(百済寺伽藍)
  • 愛東町合併30周年記念ふるさと読本『山と川の歴史』(1986年3月31日)
  • 川上敏雄『百済寺』(1986年3月31日)
  • 川上敏雄『百済寺-城塞記-』(1987年6月25日)
  • 川上敏雄『百済寺物語』(1999年5月31日)
  • 東近江市百済寺町『百済寺遺跡』(2007年3月)
  • 東近江市百済寺町『百済寺遺跡発掘調査報告書』(2007年3月)
  • 東近江市百済寺町『百済寺文書調査報告書』(2010年3月)
  • 東近江市『愛東地区建築関係史料調査報告書』(2010年3月)
  • 東近江市史『愛東の歴史ダイジェスト版』(2010年3月)
  • 明日一史『淡海文化財論叢 第9輯』(2017年)

アクセス・拝観料について

住所 〒527-0144 滋賀県東近江市百済寺町323 (旧) 愛知郡愛東町大字百済寺丁323
電話:0749-46-1036 ファックス:0749-46-2096
拝観時間 8時30分〜17時(受付は16時30分まで)
拝観料 【大人】(個人)600円(団体30名以上)550円
【中学生】(個人)300円(団体)250円
【小学生】(個人・団体ともに)200円
【障がい者】(個人)500円
駐車場 バス・乗用車ともに無料 [収容台数:大型バス20台、乗用車220台]

札所・霊場

近江西国観音霊場第十六番 / 神仏霊場第141番(滋賀第9番) / 湖国十一面観音霊場第十番 / 聖徳太子御遺跡第三十四番 / びわ湖百八霊場第64番 / 湖東二十七名刹第十一番 / 百寺巡礼第35番(五木寛之) / 井伊家ゆかりの16社寺第十六番

釈迦山百済寺 Facebook

top